脳死にしたい人間の正体
産經新聞での記事をまとめて紹介している方のブログを紹介させていただきます。
ず〜っとページをスクロールしていただいて、【風4】に載っているある男性医師のコメント。
《厳しい言葉を勇気を持って書かせていただきます。これから死んでいく人を守るべきか、これから生きていける人を守るべきか。僕にとって答えははっきりしていますが、みなさんはどうでしょうか?》
なんと寂しい人生なのだろう。
脳死を薦める人の正体って結局こうなんだろうと思う。
この人は人間の価値をなんだと思っているのだろうか。
生産性の高いことが価値を持つと思っているのだろうか。
それだと機械じゃないか。ロボットじゃないか。
死んでいく人と生きていける人。どちらも生きています(逆説的にこの人は脳死はまだ生きている状態だと認めています)。
どちらの人生が大事なのか?
その判定基準は、なんですか?
この人にとっての判定基準は『機能性』『生産性』なのだろう。
しかし、多くの知識人が思っているような価値観では人間は決して幸福になれません。健康であること、お金があること、学歴があること、将来が安定されていること…。
そんなことはどうでもいいことだ。
手段です、これらは。自分の志を果たすための。
(医療は完璧だと思いながら苦しんで死んでいく医師もいます。病気を治すことに精一杯で、人間の幸せを見落としながら走っているんです)
人間の幸せは、心が満たされた時以外にありえません。
愛されていると感じ、愛していると感じ、自分に許された、自分の役割を見つけて努力すること。
この条件が揃っていたら、健康もお金も学歴も安定も、どうでもいいことです。
体の充足も、それ自体が目的なのではなく心を満たす手段に過ぎないのです。
どうか、天秤にかけてみて欲しい。冥土まで持って行く価値観はどれなのか?
「生産性」で考えるなら、瀕死の状態で、死に近いと見なされる人間の価値は低いでしょう。カタチに残る物はなにひとつ残せないのですから。
しかし、脳死と判定された人間の心のありようを考えてみたことがあるでしょうか?
心の中で、お母さんに微笑んでいるかもしれない。
この世に生まれたことに感謝しているかもしれない。
死への恐怖と寂しさに涙を流しているかもしれない。
はたまた、外部に自分の意志をうまく伝えられないことをもどかしく思っているかもしれない。
私は、死に近い人間の価値を見下して、罪悪感を払拭するために「脳死は死だ」と叫ぶ人間を信用しません。ドナーであろうと、レシピエントであろうと関係ありません。命が与えられているうちは、責任を持って生き切る。
自分の命は自分のものと思うからこんなに傲慢な行為にでるんじゃないか。いろんな要素が重なって生まれて来て、いろんな周囲からの栄養で生かされていることがわかっていない。ましてや、子どもは親のものではない。親も子も、生まれて来た意味を見つけられないから、死は敗北だと思ってあたふたしている。情けないことです。
大事なのは目に見えないものだ。生き場所を見つけられない人には死に場所もない。生きるか死ぬかの議論ばかりで、どう生きるか何のために生きるのか医師も家族もわかってないじゃないか。
興奮したら敬語になってしまいましたが、結局、脳死は人の死ではないと言いたかったんです。機能や生産性が失われても心はそこにある。人間の価値は少しも奪われていない。それぞれに役割のある命です。
そこを踏まえた上で、臓器のやりとりをして欲しいと思う。
それでも臓器を提供するというのなら、大したもんだと思います。
そもそもこれは暫定的な方法、もっといい医療技術が出てきます。絶対に。
ず〜っとページをスクロールしていただいて、【風4】に載っているある男性医師のコメント。
《厳しい言葉を勇気を持って書かせていただきます。これから死んでいく人を守るべきか、これから生きていける人を守るべきか。僕にとって答えははっきりしていますが、みなさんはどうでしょうか?》
なんと寂しい人生なのだろう。
脳死を薦める人の正体って結局こうなんだろうと思う。
この人は人間の価値をなんだと思っているのだろうか。
生産性の高いことが価値を持つと思っているのだろうか。
それだと機械じゃないか。ロボットじゃないか。
死んでいく人と生きていける人。どちらも生きています(逆説的にこの人は脳死はまだ生きている状態だと認めています)。
どちらの人生が大事なのか?
その判定基準は、なんですか?
この人にとっての判定基準は『機能性』『生産性』なのだろう。
しかし、多くの知識人が思っているような価値観では人間は決して幸福になれません。健康であること、お金があること、学歴があること、将来が安定されていること…。
そんなことはどうでもいいことだ。
手段です、これらは。自分の志を果たすための。
(医療は完璧だと思いながら苦しんで死んでいく医師もいます。病気を治すことに精一杯で、人間の幸せを見落としながら走っているんです)
人間の幸せは、心が満たされた時以外にありえません。
愛されていると感じ、愛していると感じ、自分に許された、自分の役割を見つけて努力すること。
この条件が揃っていたら、健康もお金も学歴も安定も、どうでもいいことです。
体の充足も、それ自体が目的なのではなく心を満たす手段に過ぎないのです。
どうか、天秤にかけてみて欲しい。冥土まで持って行く価値観はどれなのか?
「生産性」で考えるなら、瀕死の状態で、死に近いと見なされる人間の価値は低いでしょう。カタチに残る物はなにひとつ残せないのですから。
しかし、脳死と判定された人間の心のありようを考えてみたことがあるでしょうか?
心の中で、お母さんに微笑んでいるかもしれない。
この世に生まれたことに感謝しているかもしれない。
死への恐怖と寂しさに涙を流しているかもしれない。
はたまた、外部に自分の意志をうまく伝えられないことをもどかしく思っているかもしれない。
私は、死に近い人間の価値を見下して、罪悪感を払拭するために「脳死は死だ」と叫ぶ人間を信用しません。ドナーであろうと、レシピエントであろうと関係ありません。命が与えられているうちは、責任を持って生き切る。
自分の命は自分のものと思うからこんなに傲慢な行為にでるんじゃないか。いろんな要素が重なって生まれて来て、いろんな周囲からの栄養で生かされていることがわかっていない。ましてや、子どもは親のものではない。親も子も、生まれて来た意味を見つけられないから、死は敗北だと思ってあたふたしている。情けないことです。
大事なのは目に見えないものだ。生き場所を見つけられない人には死に場所もない。生きるか死ぬかの議論ばかりで、どう生きるか何のために生きるのか医師も家族もわかってないじゃないか。
興奮したら敬語になってしまいましたが、結局、脳死は人の死ではないと言いたかったんです。機能や生産性が失われても心はそこにある。人間の価値は少しも奪われていない。それぞれに役割のある命です。
そこを踏まえた上で、臓器のやりとりをして欲しいと思う。
それでも臓器を提供するというのなら、大したもんだと思います。
そもそもこれは暫定的な方法、もっといい医療技術が出てきます。絶対に。
by tyukita | 2009-06-19 00:37 | 政治のはなし | Comments(0)

