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青森、沖縄、グァテマラ、岡山で生活してきたカフェ好き主婦の自由なブログです。


by tyukita
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いただきます、が言いたくて

個人レベルの「もったいない」を考える

既に「食料」になっている生き物には申し訳ないが、
彼らの命を実感して毎度の食事をするためには大いなる想像力が必要だ。
想像だけでは追いつかない現象は、体験してみたらどうだろうか。

殺してみる?

それすらも慣れてしまうだろうか。

私たちが日々食している食べ物。
残されて捨てられる食べ物。
「もったいない」という感情をどこから連れてくればいいのか。
例えば、
世界中には飢えに苦しんで死んでいく人たちがいるのだから、その人たちを想い、捨てられていく食べ物の価値を想像してみる。
または、他の命を頂いているのだから、それを無駄にしてはいけない、と誓ってみる。
確かにこれはこれで大事な考えだと思う。
しかし、これだけではなにか足りない気がする。
地球住民に十分な食料がまわったら、余った分は捨ててもいいというわけでもない。また、「命」といえば聞こえはいいが、既に食料としての魅力を失っているものに対して(たとえば果物の皮や、動物の骨など)、我々の多数は「命」を想像できるだろうか。死んでいった生き物にとっては同じ自分の体の一部なのに。わたしたちは(少なくとも私は)言葉にしているほど、気持ちが至っていないように思う。

食べられない人を想う。お皿に載る他の命を想う。
それはそれでとても大事なことだが、私たちが「健全なる食事」をするために、もっと大事なこと、それらすべてを包括している条件があるように思う。
それは、
「食べ物を美味しく食べられるということ。そんな自分でいられること」
それ自体が幸せで貴重なことである、ということではないか。

ひとりで暗い気持ちでご飯を食べる、美味しくないと感じながら食べる。
残さず食べても心は飢えている。そうではなくて、私たちはもっと自分の心を満たすための「食事」を大事にしてもいいのではないか。

食欲があるから(食事に魅力を感じるから)「もったいない、美味しいのに」と思うのじゃあないか。その気持ちこそが、健全な「もったいない」じゃないか。

なぜこんな機会がわたしたち生物全てに与えられているのだろう。
他の生き物を殺してまで生きなければいけない機会。
しかし私が思っているよりももっと即物的で、シンプルな機会。
汚くもあり、神聖でもある。

友達と、家族と、楽しい会話があって、食後に満ち足りた気持ちになる。
大事に握られたひとつのおにぎりに涙が止まらない(ここだとトルティーヤ)。
美味しいと感じられたから、明日も生きたいと思う。

食事を軽んじると、体のみならず心が飢えてしまう!!
そう思って初めて、
「今日も喜びをいただきます」
と、私はお皿に向かって心から手を合わせられる気がする。

早くも任地に入って一ヶ月ですが、
なんといったらいいか…。
とてもいいところです。
子どもが走り回っています。
歩けば子どもにあたります。
湖でいつでも泳げます。
最近トルティーヤとアトル(暖かい飲み物)の作り方を習っています。
一度小学校でクラスを持ちました。
今、小学校の壁に絵を描いています。
あと、焼き畑による自然破壊が問題になっているので、それが最初の仕事になりそうです。
でもあと二年あるので、私がこれまでせっかく経験した失敗/成功、すべて繋げていきたいです。なんか、考えていると涙が出てきます。本当にいいところです。
ネット環境はまずまずですが、あまり、ネットをする時間がありません。
食べ物は、美味しいです。私好きです。

今はここで生きて、ここのひとたちとたくさん交流するようにしているけど、
いつも日本の皆さんの健康と充実をお祈りいたしております。
またね!!

とみー
いただきます、が言いたくて_a0072054_1358496.jpg

by tyukita | 2007-05-31 02:19 | 0703~グァテマラ1