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青森、沖縄、グァテマラ、岡山で生活してきたカフェ好き主婦の自由なブログです。


by tyukita
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宗教の話

日本人(の若者)はたいして信心深くない。お寺や神社が身近なものであり慣習としての宗教は残ってはいるものの、教え、教義に対しての関心は低い。また新興宗教については、布教活動がアクティブなためか一歩距離をおいている人が多いように思う。その理由として、よっつの理由が考えうる。というか勝手に考えてみた。
ここから言う「日本の若者」とは自分を中心にした視点であるから、かなり偏っていますがお付き合い願いたい。

まず第一に、科学に対する高評価とそれと対立する宗教、という構図が挙げられる。
大昔、ガリレオやダーウィンに対してのそれのように、しばしば新説を否定する材料として「神への冒涜」という文句が使われた。そのため現代人には宗教は科学を否定するもののようにとらえがちだ。つまり、過去に「宗教を否定するおそれのある新科学は全て否」としたように、現在は「科学を否定するおそれのある新宗教は全て否」と思えてしまうのだ。うがった言い方をすれば「通説や自分たちの権威を否定するものは全て否」とするということである。科学技術が発達した現代の日本に生まれ、その様子にほれぼれしているときは他のことは目に入りづらい。
極端…とも言えるかもしれないが、極端に結論づけてしまった方が、楽ではないですか。
ちなみに、私は土井さんも宇宙に行っていることだしガリレオの地動説には納得しているが、ダーウィンの進化論はなんだかよくわからない。勉強します。

ふたつめに、敗戦の傷跡。
昔は、日本も仏教徒、特に比叡山の僧はエリートと見なされていたが、時代が下るつれ情勢も変わって来た。そして日本神道に帰依した果ての辛い敗戦を経験し、すっかり宗教に対してアレルギーを持ってしまったようだ。「信仰」と「狂信」はいっしょくたにされ、そのまま一応の結論をつけられてしまったのではないか。
ひとつめの理由とも共通するが、ある行為によって痛い目にあった場合、その行為すべてが間違いであったように思えるのはよくあることだ。
それとも「日本人の精神的支柱をとる」というアメリカの占領政策が大成功しただけだろうか。

みっつめは、信仰の必要性を感じる機会が少ないこと。
日本は義務教育がしっかり普及しており、努力に応じて奨学金も受けられるし、たらいまわしにされるかもしれないが呼べば救急車だって来てくれる。現在の自分の不幸な境遇を、全て社会のせいにするにはなかなか気がひけるような国だ。急に銃で撃たれることもそうそうないし、人を殺さなければ自分が死ぬような機会もない。
つまり、自分の努力次第で現状を変えられないということは少なく、また、死がたいして身近な存在でもない。それは、自分の努力を超えた存在を感じる瞬間が少ないということ。そうなると救いを求める気もあまり起きなく、真剣な祈りが必要と感じる機会が少ない(そうじゃない人ももちろんいるでしょうが)。

よっつめに、怖い宗教(カルト教)の存在。
新興宗教と呼ばれるもののなかには犯罪行為も辞さない危険な団体もあるため、「宗教は怖い」という認識がすっかり浸透している。
本来ならば、ひとくちに「宗教」と言ってもやはり玉石混合。いっしょくたにすることはできない。しかし、問題が起こったときにのみニュースになるわけで、なかなかそれ以外の認識を持ちづらい。

ここまで書いて、わたしは特に結論が出てないばかりか、問いそのものも用意してないので、ただのつれづれ話になってしまいましたね。

しかし宗教について。そして科学について。
少なくとも今日の日本において、このふたつは対立してしまうのか。
本来ならばどちらとも、心安らかに暮らしたい、そして他人を助けたいという気持ちの表れではないか。そうであって欲しい。
by tyukita | 2008-03-21 22:46 | 0711~休養青森