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日記です

ばれーいいですね。観ていて楽しいスポーツ№1です。スポーツは自分の弱みや強みが露呈するから、とてもいい修行になりますよね。その気もないくせに言うけど、なにか運動してみようかな~。最近の精神戦といったら、ダイエットくらいかな。ダイエット、学ぶこと多いですよ…。

今日おばあちゃんを連れて吹奏楽のコンサートに行った。
月並みだけど、音楽いいですねー。吹奏楽団には一見、アナウンサーの安住伸一郎さんによく似た人が沢山いた。ちらほら、ラグフェアーのメンバーみたいな人も。言わんとしていることがわかりますかね(笑)。女性は、あれですね、細身で髪の毛は基本ストレートでさらさらで、可憐な感じで。興味が似ていると格好も似てくるのでしょうか。しかし、普段背広で眼鏡で物静かな感じの良いパパが、急にウッドベースなんて弾きだしたら、「パパ、かっこいい!」と家族で惚れ直すだろうな~。かっこよかったです。いやあ、月並みですが、音楽って心に大きく作用して、素敵な夜にしていただきました。

祖母が、周囲の人に妬まれるらしい。辛そうに話す。辛いんだろうな。ときどき行く分には、優しそうな人が多い気がするんだけど、よくわからない。妬んでる人が物を隠すんだって(でも祖母のふとんの下から出てくることが多い)。あと、家(祖母の実家)のものが誰かに盗まれたという。見えるんだって、その映像が。
私が推測するに、祖母は若い頃、誰かに妬まれてものを盗まれたような体験があるのではないだろうか?それをひきずっているんだろうか。今現在は、実際のところ盗まれていようがいまいが誰も困らないんだけど、祖母は本当に困っている。よく知らないけど、祖母の実家は結構裕福だったらしいから、そんなこともあったのかもしれない。事実はどうあれ、現在も祖母は、「妬まれて盗まれる」感じが続いて困っている。
でも、わかる気がする。私年取ったら、「発表会の前なのに何も準備していない!」ってパニックになるだろうな、と思う。よく夢でみるのだ。まあ、今からしっかり準備する習慣を身に付けておいて、そんな失敗ありえない、っていうところにまで持って行きたいものです。
あ、誤解のないように。祖母は優しい人です。品があって、素敵な人です。だから誰でも持っている不安とか習慣が、年を取るとだんだん露呈して出てくるんじゃないかな~と思う。

今日ウルルンでスペインの飴屋さんをやっていた。
そこのオーナーが「トミー」というらしい。それだけで、わたしはいつかスペインに行って、そこのお店に行こうと90%心に決めた。ビデオもとった。美術品の修復のバイトとかあるらしいし、なんだか、私の好きなものがたくさんありそう!

と、盛り上がる11月下旬。
今週青森を発って、友達に会ったり、研修に行ったりするから、俗世間に戻ることにわくわくしてます。まあ、どっちも大事だ。じっくり考える時間も、外で自分の歪みを矯正してもらう時間も。
by tyukita | 2006-11-27 00:34 | 0610~助走

青年海外協力隊

親や周囲の環境に許してもらって、住み慣れた日本を発ち、話しなれない言葉と接し慣れない文化の中で、二年間、仕事をして帰ってくる。仕事といっても、私の場合資格のいらない職種だから、目に見えて役に立つというよりは、日本の文化を忘れずに現地の良さも学ばせてもらう。いろいろな問題が生じても、それはそうだろうと覚悟して自分で選んだことだし、日本に戻った時に懐かしく思い出せるように消化するように心がける。自分の器なりにできることがありそうで、まあそんなに寒いところでなければどこの国でもいいんだけど、やはり派遣が決まった国というのは親しみも沸くし、いろいろ知りたいし、受け入れてくれるだろう国には感謝の気持ちが出てくる。

まだ訓練も始まってないのに、随分とおこがましいけれど、わたし人生もこんなもんじゃないのかな~と思うんだ。手塚治先生の有名な「火の鳥」を読むと、今この目に見えている自分の生活が非常に一瞬の出来事のように思えるんだよね。また、夜空に無数に煌く星も、あれすべて太陽のような恒星だというんだから、その周りに太陽系のようなものがあってもなんの不思議もないと思うんだよね。あの煌く星の周りに地球のような星があっても不思議はないだろうなあと思うんだよね。マクロも果てしないけど、ミクロの世界も、わたしの体に居る微生物が「ここが全て」と思っているようにわたしも地球がすべて、と思っているかもしれないな~と思うんだよ。そんなこと考えると、人間の見えてるこの世界があまりに小さく思えてくる。命の長い短い、規模の大きい小さいにこだわれば、下をみればキリがないし、上を見てもきりがない。微生物より人間は長生きだから価値があるかっていったら、そんなことじゃなくて、微生物は微生物の営みをしている、人間は人間の営みをしている、っていうことが偉いんだと思う。命の長さ、命があるかないかだけにこだわれば、ただでさえ儚いこの世界が、余計儚くなってしまうんだよね。協力隊だって、行けばいいってもんじゃない。自分のそのときの器なりに、3なら3の仕事をしてくることが大事だと思うんだよ。別に5の仕事してこなくても、3の仕事はできそうだ、と思って行かせてもらえるんだから、5の評価を求めて挫折するよりは、3の仕事はやってこようと思って行けばいいと思うんだよ。人間の人生だって、大体何年くらい生きるか予想できるんだから、その期間で自分がする仕事終わったら、それでいいじゃん、と思うんだよ。
「人命は地球より重い」というのはあまりに有名な台詞だけど、その真意はともかく、字面だけで考えると、じゃあなんのための命か?って思う。みんななんとなく命は大切だと思ってる。でも、命の大切さを教えるべき教育の場で、教師が自殺してるんだから、子どもだってしてもいいかもな、という気になる。結局その教師もなんで命が大事か、命が大事だという理由を自分のなかに落としてないから、自殺できるんだと思う。口で言ってても、本質的に納得していないなら、いつでも覆せるもの。わたしは、命より、その命でなにをやるかが大事だと思う。任期が終わって日本に帰るのは何も悲しい事ではない。現地のひとと別れるのは悲しいけど、やっぱり、帰国は嬉しい事だ。「おつかれさま!」と自分にささやき、日本の家族やともだちに会う楽しみで、頬をゆるませて帰ってくるだろう。問題は、任務が終わってないのに帰国してしまうことだ。「なにやってたんだ」と怒られても仕方ない。なにより、自分が不甲斐無くて苦しいんじゃないかな。死ぬ事も同じ感じだ。別にそんなに悲観視することではないと思う。でも、わたしはまだまだ、やるべきことを終えてないと思う。やるべきことをやってないのに死ぬのは、ハプニングだとしても、ちょっとショックだな、と思う。わたしの尊敬する、これもまたあまりにも有名な坂本龍馬先生の台詞を引用させていただくのは申し訳ないが、お姉さんに宛てた手紙のなかで、こうおっしゃっている。「私をけつして長くあるものと思召しては、やくたいにて候。然るに人並みのやうに、中々めつたに死なうぞ。私が死ぬる日には、天下大変にて、生きてをりても役にたたず、をらずとも構はぬやうにならねば、中々こすい奴で死にはせぬ」。そして結局、薩長同盟、大政奉還の偉業を成し遂げた後にあっさり死んでしまった。ただこれは非凡な人生である。けれど、「役に立たないようになるまでは死ぬつもりはない」と言う気概には、「なんだか命は大事みたい」という現代におけるあやふやな大前提よりも私は魅力的に思えるのだ。別に長寿にこだわらなくとも、短命を美化しなくとも、命がけで働く人間を嘲笑しなくともいいじゃないか、と思う。任期は与えられているんだから、任期中にやれると判断された任務をやればいいじゃないか、と思う。死んだように生きずとも、生きてないのに死なずとも、言葉は過激だが、生きて、死ね!と思う。どうもこんなに自殺されると、あーあーあーあーあー。引き戻したい。
と思ってしまう。なんともやりきれない。あー!!悲しい。私も、いつか死ぬなら、その前に生きなきゃな〜。

特に何かもの申したいわけではない。ただこう思ってるだけだ。一気に書いて少々呆然としている。しかしながら、マクロでみてもミクロでみても、こうも果てしない世界にあって、もう、命の長い短いにこだわってもきりがないんじゃないかと思う。与えられた任期で、自分の器なりに、学ぶ事は学び、残せるものは残してから住みなれた安楽の場所に帰ってくればいいんじゃないかと思う。任期中に人間として、というよりは自分として何を営むか、だと思う。日本に慣れてしまったら、海外は戸惑いが多いかもしれない。不自由は多いかもしれない。でも、そのなかで、得るものがあるはずと自分で決めて行くんだし、そこで自分の器なりに(←ここが重要)残せることもあるはずだと思って、自分で決めていくんだ。人生も然り!そして結構楽しめることも多いと思う。あ~頭が疲れた!
by tyukita | 2006-11-23 22:46 | 0610~助走

とくになにもないけど

なんも頭に思い浮かびまへん。
最近うちでは流行っているのが青森ローカルの『いいでば英語塾』という番組。津軽弁と英語を同時に学ぶことができるのです。これ、内輪ネタなのかな?結構笑っちゃう。vol.3の『ええっ ダメダメ!』のフレーズの回とか面白かった。くだけて使っている言葉を冷静に分析されると、その温度差に笑える。

津軽弁では曖昧母音とか、巻き舌とか、結構使うらしい。それなのにわたしは巻き舌ができないの…。がっくし。練習中。ぼそぼそ話す人が青森に多いってはいうけどね。私津軽弁のイントネーションはばっちりなんだけど、わからない単語とかあるので、これで少し勉強しなきゃなー。
でもこの番組でやってる西北津軽弁と、わたしの住む青森市の津軽弁はちょっと違うらしい…と父が言ってた…。でも、聞いてればちょっとわかる。活字のみを見るとかえってわからない。
by tyukita | 2006-11-21 20:26 | 0610~助走

ちょっとなんか…

あんまり寒くないな。
どこと比較するかだけど。
例年の青森に比べたら寒くないな。
雪降るかと思えば今日も雨だし。
雪だなー。良くも悪くも雪降ってこそ北国の冬なんだがなあ。
でも寒くなったらなったで、文句言うんだろうなあ…。甘えてる!

今日ACちゃんが、なんだか、なんでも、青森の紹介誌みたいなフリーペーパーみたいなのを作るのに写真班として参加したそうで、その冊子を持ってきてくれた。まだあんまりじっくり読んでないんだけど、ACちゃんの写真初めてじっくり見れて、思ったより素敵で、よかったよかった。写真もいいけど、ACちゃんから発せられるクールな発言がいいんだ。私どうやら本当に写真とるのが下手らしく、本当に下手らしく、でも才能無きを嘆いてもないし情熱無きを恥じてもいないので、どうやら写真は見る専門で楽しいみたい。必要があれば、同じカメラを持っているACちゃんに聞いてみようと思うが…。デジカメ買ったほうが確実か!?この冊子、じつはフリーじゃなくて600円で、ちょっと高って思ったけど、もらったから、ラッキーみたいな感じです。

今日はサークルで一番敬愛しているハゲちゃびんの先輩に赤ちゃんが生まれたそうで、メールをいただきました。なんてゆーか、会ってもいないけど、友達が増えたみたいで嬉しい!!あの先輩の子どもなら、どうしたって面白く育つでしょう。日本に帰ってきたら会いに行こうっと!きっと泣いちゃうなちょっと。

あと、ニューカレドニアでお世話になったかたから、手紙届いたよのメールをもらった。
この人、すごいんだ。一度日本の大学でてから、ニューカレドニアで結婚して、日本語の先生になって、またもう一度フランスの大学で学士からやりなおして、今博士過程なの。仕事もして、学生でもあり、それで、しっかり子どもに手料理を食べさせているし、私に対してもすごく慈愛に満ちた方で、本当に参考になった。なにがすごいって、努力がすごい。すごい努力。計画的努力。才能より努力?努力する才能?工夫と努力?旅は、魅力的な人に会えるのもそうだし、精力的に吸収しようとしている自分もいいよね(笑)。

わたし思うけれど、100人くらいの生涯を素の姿で見る機会があれば、きっと人生をどう生きるべきか法則性が見えてくると思う。100人くらいね。難しいね。

あ~、なんか生産性のないことを考えてしまった。生産性のあることばかりしているわけじゃないけど、こういうのをつれづれに…っていうんだろうなあ??
おしまい!
おーい、そろそろ例年くらいの雪降ってもいいよ~。
by tyukita | 2006-11-20 23:45 | 0610~助走

極端から極端へ

極端から極端へ。

苦行か快楽か。
過食か拒食か。
宗教か科学か。
人工か自然か。
見えるものか見えないものか。
気に入るか無関心か。
日本か外国か。
捨てるか捨てないか。
古いか新しいか。
多数派か少数派か。
他力か自力か。
いじめるかいじめられるか。
血がつながっているかいないか。
友達が多いか少ないか。
死ぬか生きるか。
善か悪か。

右か左か(←思想のことじゃないよ)で口角泡飛ばさずとも、ちょうどいい第三の道がある場合も多いと思うんだけどね。
「いい塩梅」で暮らすことの難しさを、身をもって考える。わたしだけかい?極端から極端へ走りがちなのは。バネをはじくが如く、びよ~んとね、思考が暴走してしまう。
ほどよく力を抜いて、ほどよく力を入れて泳げれば、そんなに水しぶきを立てずとも、綺麗なフォームで泳いでいけると思うんだけどね。そしたら、自分の器でも、なんとか岸にたどり着けると思うんだけどね。

つまらん。
そして重い。
世間の目、迷い、自分の心。
つまらないと思っていても、何度も泳いでみないとバランスのとり方がわからないんだろうな。

釈迦は「中道」を説き、孔子は「中庸」を説いたというが、これほどの偉人に昔から説かれているくらい、中ほどの道を歩むことは難しいが重要なんだろうな。
by tyukita | 2006-11-19 16:59 | 0610~助走

ごらんあれが竜飛岬

自殺ブーム?????

と思うくらいこどもの自殺が多い(中高年の自殺はニュースになっていないだけ?)。
死ぬのが怖くないなんてうらやましい限りだ。
いや、生きるのが死ぬのよりも辛いのは、やっぱり辛いのか。
転校しちゃえばいいのに、と思うけど、子どもの力だけじゃかなわないから、やっぱり難しいのか。うーん。

今年の3月に、関西の友人が遊びに来てくれたので「私も行ったことのない青森ツアー」を開催した。そのときに、日本海側、初めて見たんです。

沖縄の恩納村への道に似た道をとおり、さあて、ここを曲がれば海が見えてくる……
沖縄だったら、そこで視界が開けた瞬間、
「キレーイ!!!」
という歓声があがるのだろうが、
竜飛岬方面に向かうわたしたちは、日本海を見て、

「厳しーーーーーー!!!!」

と叫んでしまった。

飲みこまれそうなほど荒れ狂う高波、
鉛色の空、
肌を突き刺すような寒風、
ごうごうという音、
世界にわたしたち四人だけ…?という孤立感。
あげくの果てに、厚い雲が割れ、光が差し込んでくるので、なぜか西洋の神様がお怒りになって降りてくるところかと思った(そういう感じの絵画があるじゃん)。

「ひえ〰。ごめんなさい」
とわけもわからず謝りそうになった。

でも、不思議なもので、元気が出た。
なんでだろう。
沖縄の癒しの海とは、違うパワー。
本当にカラカラの心の人には、荒療治でこっちの海をお薦めしたい。
「叱咤激励」を景色にしたらこうなります、という光景。
追われると逃げたくなる、引き止められると行きたくなる、みたいな作用・反作用の法則が働くのか?厳しい光景を眺めるほど、励まされているような気になってくるから不思議。
しかも、このときは落石のため竜飛岬まではたどり着けなかったので、よけい厳しさを感じた。

心から元気のない方は、一度、北の日本海を見ることをお薦めします。もちろん冬に。
どうせ死ぬなら、ここを見てから!!
でも落石などの事故に遭わぬよう、そしてなるべくひとりで行かないよう、気をつけたほうがいいと思う。ひとりだと本当に怖い。
by tyukita | 2006-11-17 12:35 | 0610~助走

女性論Ⅰ

私の幼少時は、本当にかわいくない。
「今はどうなんだ」という意見もかすむほど、本当にかわいくない。
髪は兄の真似して坊主だし、顔はでかいし(体が小さいのでよけい目立つ)、眉毛は左右不対象で太いし、水着は兄の真似して海パンしかはかないし、かといって愛嬌があるかといえば人がくると指しゃぶりをしてそっぽを向く、倣岸な態度をとる子どもだった。
どんな容姿だったか強いて言えば、ゴジラの子どものミニラにそっくりで大爆笑だ。
「かわいい」と言われるのがいやで、子どもながらに「こんな自分をかわいいなんていう大人は信用できない」と思っていた(ほんとにかわいくない…)。

そんな私だが、高校に入った頃にはすっかり愛想の良いキャラクターになった。さすがに人間関係を軽んじることもできず、色々工夫してみた。それでも、見た目をそんなに整えようとすることはせずに、中身重視、中身がよければ付き合って頂戴、なんて意識が根底にあったと思う。気になる異性がいればそれなりに頑張るが、基本的に変な髪型、服装をしていた。かりあげとか。素質もあったのか、馬鹿にされながら、されど敵を作ることはなく平穏に楽しい時を過ごした。ような気がする。

そして今、このままの自分ではいけないような気がしてきている。
これまでの私は、キレイになりたいだとか、異性にもてたいだとか、そんな気持ちがなきにしもあらずだが、それを前面にだしていいのかと思ったり…それどころかあえてボーイッシュな格好をしてしまうようなところがあった。幼少時然り、高校に上がってから然り、常に人間関係が楽なように見た目を無意識に作ってきたと思うのだ。こういっちゃなんだが、「かわいいからといって得ではない」と思っていた。いいわけがましくなってきて恐縮ですが、第一印象(見た目)が悪いほうが人間関係はうまくいくと信じていたふしがあって、第一印象がいいと、よく知らない人にやれ幻滅しただの、やれうらやましいだの、好きだの嫌いだのといわれて面倒くさいだろうという気持ちがあった…ような気がする。
幼少時は「怪しい人は来るな。かわいがれるものならかわいがってみやがれ」という、ある意味極端な防衛本能が働いていたのが、成長するにつれて「周囲に敵をつくることなく(特に同性)、笑われて生きていこう。中身だけを気に入ってくれる人と接していこう」と方針を微妙に変えたようだ。ま~自意識過剰であり、その過剰な自意識をフォローする論理を持ち合わせていなかったということなのだが。
そのことに気づいたからといって、簡単に性質が変わることもなく、今でも天邪鬼なところ、不遜な態度は根底にはあるのだと思うが、いい加減このままではいけないと思ってきた。
人間、与えられた姿かたちがあるので、その範囲内の話ではあるが、やはりベクトルが美に向かっていないことに少なからず焦りと劣等感を感じていることは確かで、「美しさのカタチ」を追う緊張感ある姿勢が内面からの美しさにもつながるという理想も捨てきれない。いまは面倒くささのほうが劣等感に勝っているというだけのことなのだ。こういう負と負の対立はよくない。こういった自分の性格の歪んだ傾向性は矯正して、なるべく、プラスとプラスの掛け合いで、もっと発展するほうがいい。
やはり、世の中の見た目も中身も美しい人を見ると、目標にしたい、と思う。魅力的だ、と思う。こういった人を見ていると、女性は、外面の美しさでもって空気を調和し、内面の強さでもって進歩を支えることができる。と思う。進歩も調和もテーマとして与えられているのが女性の特権で、その力でもって世界をゆるやかに変えていくことが女性の幸せのような気がしてくる。
その逆(外面の美しさでもって人々を惑わし、内面の強さでもって自分の都合のいい方向に持っていく?)は悪女と言われるけど(笑)。美しさの定義は難しいが、空気を心地よくできる力は美しい力じゃないのかな。偏った女性論でしたが。ちゃんちゃん。
by tyukita | 2006-11-14 17:20 | 0610~助走

先日から考えていたのだが、『徹子の部屋(2006.10.23放送)』の大橋巨泉さんの発言について。
わざわざ奥さんとローマまで行って、本来は信者しか許されないところムリを言って教会で結婚式を挙げさせてもらって、そのことについてのコメントが
「私は無神論者なんですが、あのように、教会で永遠の愛を誓ったら厳粛な気持ちになって、別れちゃいけないなという気持ちになりました」
だって。

信仰を持っている人に対して失礼なことをする人だ、と思ったので、ローマの教会まで行って挙式しておいて、「自分は無神論者だ」と発言するにいたった巨泉さんの思考をはじめよくわからなかった。
でも、こういう人が、結構いる。「美味しんぼ」に出てくる栗田ゆうこさんも47巻58ページで、「私は無宗教ですし霊魂も信じません。が、自分の愛する人が先に亡くなったら、お墓参りは欠かさないと思います」と言っていた。
別に、こうやってかたくなに霊魂を否定しなくてもいいのでは?と思ってしまう。最近の日本では、特定の宗教に帰依していない人が増えて来ているかもしれないが、霊魂そのものを否定するに至っているのはなぜだろう? というのが、素朴な疑問が浮かぶ。
こういう人は、本当はなにか自分より高い精神性に帰依したいけれど、インテリであらんとするなら、宗教的なもの、空想的なものを自分の中におくことは許されない。それか、過去に、仏神を信仰したがために相当痛い目にあったとか…そういうことだろうか?

日本には、先の戦争で味わった苦い経験から、国家主義・国家神道、ひいては宗教心そのものへのアレルギーを持ってしまったということが挙げられるだろう。
次に、社会主義思想の流れを引く者のプロパガンダ。
そして、日本が技術的に秀でているため、たとえば病気になったり、事故にあったりしたときに祈りに頼る機会が少なくなった。死の存在が遠くなり、「まあまあやっていける」人間が多くなり、目に見えないものに頼ることがなくなってきた。つまり、「人間万能」「科学万能」の意識が生まれているのではないか。どうなんでしょう?まだ考えがまとまっていませんが。

わたしが言うのもなんだけど、こういった人たちは極端だと思う。宗教というものは、その影響力が大きいが故にきっと玉石混合なんだ。玉を見つけた人が、「宗教は絶対的によいものだから」と無条件に信仰をもつことも極端だし、石を見つけた人が、「宗教は絶対的に危険なものだから」と無条件に捨ててしまうのも極端だと思う。
なにかしら面倒くさいことが出てきたら、そのすべてを否定して、全く違う考えに価値を持つ。新しいことは注目され、多数派がその考えに集まればそれはつまり知的なことになる。それは過去の失敗のアレルギーからくる極端な反応だと思う。
しかしながら、無宗教、無神論者の存在は、歴史上、地理学上、ごく限られた範囲のはずだ。かつては僧侶がインテリであり、比叡山で修行するのはエリートコースだったのだから。先日天皇家の祖先天照大神を奉る伊勢神宮(内宮)に初めて参拝してきたが、神々しかったし光栄(?)だった。西行法師が「なにごとの おはしますかはしられども かたじけなさに なみだこぼるる」と詠んだ気持ちと同じかはわからないが、萎縮してしまった。今でも日本の根本は消えてないし、戦前だったらなおさらだ。日本がこうなったのは戦後のごく若い時代の話だ。仏教なり神道なり、日本には根付いているのだ。「実は霊魂を信じていないのですが…」なんていう、ばかげた商売用説法をする僧侶がちらほら出てくるようになったのはごくごく最近のことだ。
大きな人間の流れからみると、支流に過ぎない現象なのではないか?決して本流ではない。それなのに、なんとなく昔から日本には宗教がないと思っている若者が多いような気がするのはわたしだけだろうか?

ほどよく距離をとって付き合えばいいと思うし、科学と宗教も対立することもないと思うんだけど。だって、心と体と頭で生きてるじゃんね。感情だけが支配するフィーリングの世界でもなければ、労働ばかりが価値を生む機械的な世界でもないもんね。
重複になるが、どんなものでも玉石混合の場合があり、極端にアレルギー反応を起こすのはよくない、と思う。しかし、同時に、ちょうどよい精神で、時代の流れと相互発展しつつ、健康的な生活を送る難しさもひしひしと感じる。
by tyukita | 2006-11-14 15:54 | 0610~助走

夢のような現実

祖母は認知症で、たびたび過去にタイムスリップしている。
それが面白いことに、過去のひとも現代のひとも、祖母のなかで同居しているのだ。つまり、祖母の父(私の曽祖父)もわたしも、今同じ時代に生きているようなのだ。
だから、
「わたしのお父さんに脇息(肘掛け)持って行ってけへんか」
とか言う。
そしてわたしが、
「ママ(うちではなぜか祖母のことをママと呼ぶ)のお父さん、もう亡くなったみたいだよ」
と言うと、大して驚きもせず、
「ああ、それなら心配することもなくてよかった」
と言う。

こういう状態を、わたしは全く悲観的に思わない。
記憶がシャッフルされた状態で困るのは、ガスの火を消し忘れたり、外に出て帰れなくなったり、仕事中に何度も呼ばれたり、それらの対応を嫁さんが一手に引き受けてクタクタになったりすることだと思うが、うちの祖母は施設に入って健康に秩序的に過ごしている。
「年はとりたくない」という人がいるが、そういう人は魅力的なご老人に会ったことがないのかな?と思う。それか、若い便利な肉体をなくすのが怖いのかな、と思う。しかし、若くたって、いつ不自由な体になるかわからないし、不自由になったときに自分になにが残されているか、なにができるかが人生の本番の話なんじゃないかなーと思う。今不具合のない肉体にある私が言っても説得力ないけどさ。

それにしても、祖母と話すたび自分の大きな学びになるのは、祖母が本気で認識している現実と、実際の現実が異なることだ。
口で言ったらそれだけのことだが、「本気で、祖母の現実と私たちの現実は違うんだ!本気なんだ!」という実感を持てたことは、私にとってすごいことだった。
わたしが本気で認識している現実と実際の現実も、実は違うものかもしれない…。同じだとどうして言える?私は今の世界が現実だと本気で思っているけど、祖母だって本気で思っているのに。
祖母は、今、退院して彼女の実家に帰ろうとしている。実家には、彼女の慕うお父さんやお兄さんがいると思っている。しかし現実は、もう皆さんこの世を卒業されている。だから、祖母の考える最良の現実と、実際の現実は大きく異なる。現実が夢であったなら、ガラス張りの儚い世界であったなら、一体なにを大事にすればいいのだろう?自分の方が優れていると思っていたもの、人に自慢しようと思っていたものが、ほんとはすべてお見通しされていたら?実際、年をとると、あることないこと思った事をすべて口にしてしまい、「しゃべりサトラレ」のようになってくる人も多いようだ。

なんだか、ふわふわした話になってきたが、自分が現実だと思っている事は、儚いな~と思う。場の空気をまったく読んでいない発言をしてしまったり、誉められたと勘違いして謙遜してしまったり…なんとも儚い…。自分の人生も、みんなと同じ現実を共有しているようで、実は私だけ違う世界を生きてたりして…。ひとりでアワアワしてしまった。裸の王様を笑えない。
ある種の諦念を持ち、夢でも現実でも価値が変わらないものを探して、なるべくゆがまなく生きたいものだ。自信ないけど。

面白いもので、祖母を見ていると、季節の移り変わり、人の名前・年齢などは全くの無価値に成り下がる。ただただ機嫌良く恨み無く笑っていてくれることを最優先目標としようと、家族で口裏を合わせた次第である。
by tyukita | 2006-11-10 12:40 | 0610~助走

信の字ひとつ


世の中には情報があふれていて、どれを信用すればいいのかわからなくなる。
「目に見えないものは信じない」
というどこかで聞いたことのある台詞を思い出すたび、思う。
「目に見えないから、信じるしかないんだよー」
目に見えるのなら、信じるも信じないも、だってそこにあるんだもの。
目の当たりにできるのなら、信じるも信じないも、自分の身に起こっているのだもの。

たとえば、歴史なんか、事実はひとつでも受け取り方によって評価は違うだろう。だけど、死傷者などの数字を含めた事実さえも、どの文献が正しいのかよくわからなくなってくる。評価なんて、てんでばらばら教科書でさえ違うんだから、すぐ影響を受ける私はなにがなんだかよくわからない。

友人同士の喧嘩も、自分の目で見れさえすれば、自分の判断ができるのだろうが、聞いた話だけだとなんとも。ましてや、テレビでやってる人間関係なんて、意味がわからない。

だから、信じるっていうのは、すごく手間がかかる作業なんだと。目に見えたり、手で触れたりできるものよりも、当然ながらもっともっと確実で知的なものでないと。
その情報は、自分の倫理観の範囲内か、情報発信者がヒステリックになってないか、どんな目的で発生した情報か、論理が普遍的なものか、主旨が理解できるか、どれだけの裏づけをとっているのか?
目のあたりにできない場合は、保留にしておくか信じるか、どちらかしかないと思う。だけど信じるなら、よっぽど手間をかけて信じないと、ちょっと怖い、と思います。でもわたしすぐ影響受けちゃうんだよな~。まあ深く考えるまでもなく、結局、知っていることを増やすしかないのだろうな~。
by tyukita | 2006-11-09 12:55 | 0610~助走